自分、解体深書。(仮

という(仮なEi's diary。

1_WALL

1_wall展この前混んでたから、改めてまたゆったり観に行ったら、(まぁ、もう終ってますけど)やっぱりじっくり見ると違って見えたなー、んでポートフォリオ見てまた作品が変わるし、いつも作品の一片しか見れてないんだなぁとボンヌリおもた。作品の数だけ楽しみ方もあっていいだろし、作品を深く知る楽しみってのを知りたい。 

なんか今更だけど、作品として成熟してるってか、完成されたものを作るには、一般から何か秀でたものを創り出さなきゃならないわけなんですよね。

写真だったら、画像のクオリティというか、フィルムのようにデジタルには無いきめの細かい緻密さだったりだとか、画像の表現力だったりだとか。

まぁ、写真だと画像の部分以外で評価されている作品はいくらでもいるだろうけどそれは、それ以外で作りこまれた世界観だったり考えだったりがあるわけで。。。

社会性だとか、人間の心情だとか・・・ 

 

まぁ、言ってしまえは、一般に埋もれてしまうようなありきたりな考えじゃ何も面白みが、無いと。かと言って、面白くしようとして大衆に向けた作品なんか作ろうとしようものなら、逆にたたかれるのがおちなんすよねw

そもそも、新しいことやろうとしたら、先人が誰かしらやってるというオチがつく。

じゃー、どーせーっちゅーねん。どうにも出来ませんね、自分には。

そんな事考えてたら、自分には何も出来ません。何も考えずに目の前に写るもんを映すことしか自分には出来ませんわ・・・アハハ。

人生にどんだけ無駄なことしてるって事なんですかね、アート。

アラム・ディキチヤン写真展『OUTLANDS』、21日まで 写真5枚 国際ニュース : AFPBB News

 遅くまでやってるんで、不足してる写真欲分を補充するために、あんま期待しないで逝って見た。

 まぁ、普通のギャラリーだったら閉まってるような時間で終わり間際だったからか、人出も少なく、人の目を気にしないで見る事ができた。

 まぁ、写真自体は、森山大道が提唱(はしていないだろうから、体現?)しているアレ・ブレ・ボケのオンパレードってかそれしかないし、ラチチュードなんてあったもんじゃない。ので、写真の中から読み取るもんなんてたかがしれてる気がする。(まぁ、都写美で今、マリオ・ジャコメッリ 写真展 THE BLACK IS WAITING FOR THE WHITE やってるから比較するにはちょうどいいのか?)

まぁ、それをうまくつかって、ファッションセンスと体を使ってうまく写真を導いているとは言えると思う。

 自分の期待にはそぐわないと思うけど、それよか、あのシャネルの場の雰囲気と、音楽、それにうまく飲まれてしまったかなって思った。

普通なら、写真に音楽とか邪道だわとか思ってしまうけど、うまい事マッチしてるというか、むしろ音楽有り気で見たほうがすんなり受け入れたってのが自分にとって不思議て仕方なかった。

 あんな写真でも(っていうのはとても失礼だけど)、あの場とシャネルという後ろ盾、そして相当なプロデュース力があそこまでのし上げているのだなぁとボンヌリ思ったわなぁ・・・それだけに、こういう所に魅入られるその人の力ってのはどこから来てるのかと。

 自分なんて、ファッションのフの字も知らんし、センスのかけらも無いし、俺が見てどうって言える口ではないけど、アート的なもんで何か繋がってる気はした。

自分なんて、無駄な部分をそぎ落として、楽なほうに楽なほうに逝ってしまいがちだけど、

ファッションなんて(金の)無駄だと思って見向きもしなかったけど、世の中に無駄なものなんてないし、そこに意図はあるし、むしろ無駄が必要な部分が多大にあったりする。自分に足りないのはそこなのかなぁとボンヌリ。。。

 

というか表現がボンヌリしすぎて訳分からなさ杉だろ自分、、、

 

 

一番悲しいのは誰にも知られずに消えていくって事なんでしょうし

他人の家を無断で撮影して小馬鹿にした挙句それを指摘されると即ブロックという自称工場萌え大山顕のクソっぷり - 今日も得る物なし

「何今頃文句言ってんの?団地の時に言えよ」「民俗学者にも文句言えよ」 - 今日も得る物なし

なんか、人事じゃないよなとかおもて、ついうっかり書きたくなってしまった。後悔はしていない。ように、振舞ってだけおく。

まぁ、写真家と一般人の観点を一緒にしたらあかんよな、写真家なんて変態だし。そういう観点で見てたら見えないものがある。著作権しかり人の目だとかそういう観点で撮ってたら撮れない物がある

魂のリビドーの何たるかを知らんというか、残念な見かたしてるよなぁってむしろ可哀想に感じてしまうのよね。

アートなんて人に理解されない部分にあるのだろうし。

会田誠展抗議運動について(澁谷知美の批判を受けて) - キリンが逆立ち ... [はてなブックマークで表示]

まぁ、会田誠しかり、作家にとって批判されることで世に知らしめるって事もあるので、批判が悪いってことでもないのよね。作家にとって一番悲しいのは、批判も評価も絶賛もされないで、何も反応が無くてただ無残に誰にも知られずに消えていくことなんだろうしねぇ・・・

レスリーキー私は死ぬまで自分の作品を通して世界中の人々に愛と ... [はてなブックマークで表示]

 

レスリーやら篠山やら、たいーほされてますけど、そうやって報道されることで知らない人に知られる力ってのはでかいですよね。良くも悪くも。噂話好きですしね。

余談ですが、最近、篠山が今まで築き上げて培ってきた権力と財力と知名度を遺憾なく発揮して撮ってる写真が、自分が撮りたい写真に似化より過ぎて困るんですが。。。けまらしわ。巨大構造物のシノラマとか、震災遺物的なのとか。

 

まあ、こうやって嘆いているけど、この記事も人の批判とか気にして今まで書けなかった。でも、そういうの気にしてたら何も書けないし、批判されるために描いてるわけでもないし、自分で自分を確認するために書いてるような備忘録的なもので、このブログの趣旨的なものかもしれない。

 

 にしても、こうやって描いてみると、感じるのは、自分の立ち位置として、何に対しても、批判しないというか、受け入れる体制を取っているって事なのかな。多分、人の事馬鹿にだけしてたら、何も生まれないという感じがするのよね作家として。何に対しても、得るものはあるし、一旦吸収してそこからじんわり染み出してくるモノに何か新しい何かが生まれる気がするのよね。表現しずらいけど、そんな感じ。かなぁ…?

 

工場 (文庫ダ・ヴィンチ)

工場 (文庫ダ・ヴィンチ)

 

団地の見究

団地の見究

 

楽しいみんなの写真 -とにかく撮る、flickrで見る。ソーシャルメディア時代の写真の撮り方・楽しみ方

楽しいみんなの写真 -とにかく撮る、flickrで見る。ソーシャルメディア時代の写真の撮り方・楽しみ方

 

共食いキャラの本

共食いキャラの本

自分独りの考えなんてちっぽけだぁ・・・

片桐仁と行く『アーティスト・ファイル2013』展

自分と全く接点の無いような人の観点とか見てから、実際に観に行くとこんなにも面白く見れるもんなのかと思って驚きましたわ。

1人で見てると、大体見方がいつの間にか決まった見方になってしまってるし、見る前にある程度決め付けちまってる部分が多大にある気がする。そういう意味で自由じゃないし、自分で見てても全然面白くないのよな、仕舞いには何で俺こんなの観てるの?的に考えがオワッテル。。。

 

 まぁ、こんなん見てから、観に行くと見てるもん見てるもん皆面白く見えてくるから困る。とても遊び心ある落書きに見えてくるし、子供が遊ぶ自然の中のアスレチックだったりうんていだったりに見えてくるわ、仕舞いには学芸員(?)さんまで展示物のいつ部に見えてくる始末…w

個々の作品を見てみても様々なものを感じられた。ライティング、人類の営み、蓄積、油のにおい、眼差しの強さ、汚されて無い無垢さ、記憶をねじ込まれているような感覚、生命の枝分かれの様な歴史の中を自分でも歩んでいるような感覚、マニ車、写真のぎらつき、物質感、迷路に迷い込むような展示、見えないから見ようとする深遠、グロイ画像の荒さ、フラッシュ。。。

 

大人ってなんでしょ。

大人に成りたくない生りたくないと、社会に染まった人々の中で子供じみた大人を演じている時点で、自分が一番大人気ない大人に成り下がっているんだろうなぁとアリスインワンダーランド的なものを見て思うなど。。。

 清川あさみ『こども部屋のアリス』絵本原画展、布やビーズを用いた初の立体作品を展示 -art-designニュース:CINRA.NET

 

くそつまらん。

なんかねー、他の媒体のアートなんかを見ると、(他ってのは、自分が写真やってるからそれ以外ね)写真てなんてくそつまんねーモノなんだとつくづく思うわけですよ、絵画だとか、版画だとか、出来る表現に幅があるし、特にメディアアートなんか可能性に満ち満ちてる。芸事だったり技巧だとか、様々な感覚に訴えるもんがある。もー面白くて仕方が無い。

 対して、写真なんか、自分なんか考える事なんてまぁ、ありきたりなもんもあるし、自分がやろうとしてることなんて、やりつくされてしまったといっても良い位に過去を掘り返せば、絶対出て来る始末だし、自分ひとりじゃ見えることもごく一部だし、出来る事もごくごく一部。んじゃなんでやってるかって話よね。

 写真が、フィルムからデジタルに移行した時に新しいこと出来るんじゃないかと可能性を探られてるとは思いますが、あたしなんかが掘り起こせる位には出来てないのであたしが請け負う担当ではないと思うわけですな。

 まぁ、他のもんが面白いってのは自分が出来ないから惹かれる要因でもあったりするわけですが、自分が出来ることなんて、写真を撮ってだし撮ってだしの単純作業ぐらいなもんですよ。コンセプトなんて後出しですよ。そんな事、そらーくそつまんねーですよ、でもやるのは、写真を通して、自分と向き合えるからなんだろうなとか思うわけです。周りがどうとか言う以前に、自分を知れる、写真を通して知れなかった事を拾っていく作業が自分にとって必要だったからなんじゃないかとか思うわけです。まぁ、考えてみて、こんな事は結局後付けにしか過ぎないんですが、その結論が簡単に出てしまう事なんてそこで終わりだし、面白くもなんもないわけなんです。そんな訳で、いってはみたものの、わからないからやるわけで、そのわからなさを突き詰めるためにやってるようなもんです。これからもそうあり続けたい。

写真の可能性と限界・・・

 何か、買ってないけど写真画報が何処かしこで話題になってたから立ち読みさせてもらったんだけど、アラーキーの、あのエロとかグロとかってどうも免疫無いのと、性とか生とか死とかエロスとかタナトスとか、どうもそういう雲をも掴む様な、その写真独特の、写真言語的な、言葉にならない、奇妙さみたいなものに怖さみたいのを感じていた気がするのよね。今まで、どうも見てみぬ振りしていたというか、避けていたというか、そういうところ。(今やってる1_WALLの個展もそんな雲を掴むような感じなのよね…なんかこういう、自分が生きてるからこその真摯な感情って自分の肉体的なものを飛び越えて、自分の経験だとかを呼び覚まして、精神にダイレクトに届くから強いのかねぇ・・・)

 しかし、その分からないところにその変態じみた凄さみたいのは感じていたわけで、凄いのは何か分かるのよ。あの現実が、今いる自分の現実と共存してるってのを写真から見て取れるのを考えるとその写真にありえなさを感じるし。

 んでも、写真で評価されてるのって、どうもその目に見えない部分で、その独特の変態性みたいのを感じ取れる人達に評価が集まる気がすんのよね。

 なんかその、言葉にならない写真言語的な、雲を掴むようなものを自分でやっとこさ写真を見てきてわかってきたような気がするのがここ最近・・・

そして、わかっても、自分には出来ないだろうなぁとわかるからこそ感じてしまう不甲斐なさ。。。

 でも、自分がやろうとしてる事とか、自分で分かる事ってどうも言葉で表現できるようにだとか、分類できるように自分の中で解釈して出来る写真をやろうとしてる。それが、自分の写真の限界的な気がするのよねぇ・・・