自分、解体深書。(仮

という(仮なEi's diary。

写真の可能性と限界・・・

 何か、買ってないけど写真画報が何処かしこで話題になってたから立ち読みさせてもらったんだけど、アラーキーの、あのエロとかグロとかってどうも免疫無いのと、性とか生とか死とかエロスとかタナトスとか、どうもそういう雲をも掴む様な、その写真独特の、写真言語的な、言葉にならない、奇妙さみたいなものに怖さみたいのを感じていた気がするのよね。今まで、どうも見てみぬ振りしていたというか、避けていたというか、そういうところ。(今やってる1_WALLの個展もそんな雲を掴むような感じなのよね…なんかこういう、自分が生きてるからこその真摯な感情って自分の肉体的なものを飛び越えて、自分の経験だとかを呼び覚まして、精神にダイレクトに届くから強いのかねぇ・・・)

 しかし、その分からないところにその変態じみた凄さみたいのは感じていたわけで、凄いのは何か分かるのよ。あの現実が、今いる自分の現実と共存してるってのを写真から見て取れるのを考えるとその写真にありえなさを感じるし。

 んでも、写真で評価されてるのって、どうもその目に見えない部分で、その独特の変態性みたいのを感じ取れる人達に評価が集まる気がすんのよね。

 なんかその、言葉にならない写真言語的な、雲を掴むようなものを自分でやっとこさ写真を見てきてわかってきたような気がするのがここ最近・・・

そして、わかっても、自分には出来ないだろうなぁとわかるからこそ感じてしまう不甲斐なさ。。。

 でも、自分がやろうとしてる事とか、自分で分かる事ってどうも言葉で表現できるようにだとか、分類できるように自分の中で解釈して出来る写真をやろうとしてる。それが、自分の写真の限界的な気がするのよねぇ・・・